ハバクク書

 

31,2 試練にあったときに読むとよい箇所としては、ヨブ記、詩篇73篇、そしてこのハバクク書を挙げることができると思います。

経験したことのないこと、身近に聞いたこともないことが襲ってきたとき、神様にゆだねればよいということは、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ828)と理解していても、そのような心境になることはなかなか難しいことです。若い人に対して、「ゆだねればいいんだよ」と言っておきながら、自分に新たにチャレンジがあると、いろいろ考えてしまいます。

 

神様にゆだねることができたハバクク

ハバクク書は、ハバククの祈り、主からの答え、ハバククの祈り、主からの答え、というように1、2章は対話形式に進んでいきますが、3章はその全体がハバククの祈りです(31)。

「主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ。あなたのみわざを恐れました。」(32)とあるように、2章までの対話で、ハバククは神様のなさろうとすることを理解しました。ここまで激しく神様に抗議したり(124)、疑問を投げかけ、そのご計画を変更するように迫ったりすること(11214)をやめました。

 

ハバクク書の背景

ハバクク書が書かれたのは、BC607頃。すでに100年程前(BC701)、北イスラエル王国も南ユダ王国のエルサレムを除く46の城塞都市もアッシリアによって滅ぼされ、ただエルサレムだけが残されていました。しかしそのエルサレムの町も主に対する健全な信仰によって維持されていたのではなく、暴行、暴虐がまかり通り、律法が眠りさばきが行われないという状況でした。民が悪かったのですが、そもそも上に立つものが悪かったのです。わずかに正しい人(14)が残されているだけという状況でした。ハバククはエルサレムを救ってくださるように訴えますが、なかなか答えをいただくことができず、途方にくれていました。

そしてやっと神様から答えをいただいたと思ったら、それは全然想像だにしていないことでした。エルサレムを助けるのではなく、神様が忌み嫌うカルデヤ人によってさばくというのです(1510)救うのではなく、巨悪をもってエルサレムの悪者をさばくというのです。

ハバククはその答えに動揺します。「私たちは死ぬことがありません。」(112)とは、アブラハムへの祝福の約束を反故にするのか、神様は聖なる方ゆえ、イスラエル民族が滅びることは決してないはずではないか、と食い下がります。悪者(カルデヤ人)が、正しい人(エルサレムの住民)を飲み込むことはあってはならないことではないか、と変更を迫ります。

けれども神様からは、カルデヤ人がいかにしてエルサレムを攻めるのか、の説明があるのみでした(11517)

 

2章に入り、少し落ち着きを取り戻し、ハバククは主のおことばを、耳を開いてしっかり聞こうと決意します(21)。すると神様はカルデヤ人の終わりについて明らかにされます(2220)。「見よ。心のまっすぐでないもの(カルデヤ人)は心高ぶる。」(24)と語り、その罪状(略奪、侵略、搾取、暴虐、偶像礼拝)が挙げられます。エルサレムの中の悪者をさばくために巨悪であるカルデヤ人を用いるが、これもまたときが来たらさばく、とおっしゃいます。

 

正しい人はその信仰によって生きる

「正しい人はその信仰によって生きる」(24)は、ローマ書、ガラテヤ書、ヘブル書に引用されています。そしてこのハバクク書のキーワードでもあります。「正しい人」とはだれか? このみことばをひっくり返すとはっきりします。「信仰に生きる人が正しい人」です。けれどもハバククが言っている(14)ように、エルサレムにはもはや信仰に生きる正しい人はわずかにすぎませんでした。

ハバククは、エルサレム全体の霊的な回復を求めましたが(114)、神様はもはやエルサレム全体を救うのではなく、ピンポイントで、その中の信仰に生きている正しい人だけを救い出し、新たな時代を作り出そうとのお考えです。@まずカルデヤ人によってエルサレムを滅ぼし、その中から正しい人を救い出す。A次にカルデヤ人を滅ぼす。Bそして正しい人たちの国を再建する。これはまさに歴史を見ると@カルデヤ人の国バビロンのネブカデネザル王によってエルサレムが滅ぼされ、ダニエルを初めとする人たちがバビロンに連れていかれ、A70年を経て、ペルシャの王クロスによってバビロンが滅ぼされて、Bエズラ、ネヘミヤといった人たちがエルサレムを再建する。このエズラの働きによって聖書が写本されるようになり、みことばの研究が進み、メシアを迎える機運ができます。

 

人の思いをはるかに超えた神様のみこころ

もう一度最初に戻ってハバククの考えていたこと、私たちが考えることから、考えてみたいと思います。

イスラエルの歴史を振り返ると、神に反逆しては災いに会い、神様がさばきつかさや預言者を遣わしてその誤りを指摘する。そして悔い改めて立ち返り祝福を取り戻す、ということの繰り返しでした。

ハバククは初め、暴虐に満ちたエルサレムを救ってほしいと訴えました(124)。これはイスラエルの歴史に基づくことと思います。私たちも思わぬ出来事に見舞われるとき、過去の経験に照らして、ああしてください、こうしてください。と祈るものです。ハバククも同じことをしました。その範囲でしかわからないからです。けれどもこの時のエルサレムの霊的状態は、かつてないものでした。ですから神様のお考えは、ハバククの思うところをはるかに超えた、エルサレムを救うのではなく、さばく、それも神様の忌み嫌うカルデヤ人をもってさばくということでした。ますますハバククは混乱しますが、静かに神様の御声にアンテナを伸ばしたとき、そのカルデヤ人を滅ぼすことだけではなく、その先にエルサレムを再建するというプロジェクトを垣間見ることになります。そこでやっとハバククは神様にゆだねることができるようになります。(32)

最初からゆだねることができれば、それはさいわいですが、私たちはそうは簡単にはいきません。ハバククのように、ヤコブのように、祈りを通して神様と格闘し、そこから私たちの思いをはるかに超えた、神様の私たち愛するものへのご計画をわずかでも知ることができれば、ゆだねる気持ちに導かれていくものと思います。

 

神様のみこころを理解したハバクク

ここまで明らかにされて、つまり正しい人を救済するために、巨悪を用いて悪を成敗し、その後、巨悪を打つという神様の遠大なご計画を示されて、ハバククは神様の前にへりくだりました32)。神様は忍耐し助けるだけの御方ではなく、人の悪がその限界を超えるときには一様に救済するのではなく、神様に対しての信仰に生きる正しい人を明確に区別して、対処されることを理解したのです(318,19)。

具体的に神様がどのように悪者(エルサレムの中の悪者、カルデヤ人)を討たれ、正しい人(神の民、油注がれた者 313)を救われるかを、ハバククは神様に示されたままに、神様に語ります(3315)。

まず、神様がさばきのために来られること(337)、次に神様がどのようにさばきをなさるか、そこでは天変地異もあるようですが、明らかにされ(3812)、神様が残りの民を救い、悪者が滅ぼされる様子が語られます(31315)。この内容は同時に、患難時代を経て、イエス様の支配する千年王国に至ることをも語っているようです。

ハバククは、そのすさまじさに恐れを感じますが、エルサレムの住民を責めるカルデヤ人の滅亡のときを、神様のご計画に従い、静かに待つ決意ができます(316)。その時はエルサレムにとってはすべてを失う日でもありますが(317)、主にあって救いを得、新たな出発の日ともなります。その喜びに満たされます(318,19)。

 

結論

1章で、ハバククはエルサレムの様子を見て思い煩い、神様の回答を聞いてさらに思い惑いますが、2章に入って、神様のなさることをしっかり見極めようとしたとき「正しい人はその信仰によって生きる」と示され、神様が正しい人を救い悪者をきっちりとさばく計画であることを理解して、3章では、神様がなさることが最善であると、平安に満たされていく様子を見ることができます。

初めハバククはエルサレムの混乱を見て救いを求めました。神様のみこころははるかに高く、わずかに残っている正しいものを救い、民族を再建するという壮大なご計画が明らかにされました。ハバククのみこころにかなった祈りは、ハバククの想像をはるかに超えた形で応えられていきます。

私たちは見えるもの聞こえてくることで思い惑うものですが、神様を見上げてその主権を認めるとき、すべての上に立ってすべてのものを愛によって支配されている神様の偉大な御姿を見て、心安んじることができます。

難しいことに直面したとき、物事を見るのではなく、神様にゆだねることが最善の選択であることを知ります。