キリスト・イエスの兵士


テモテへの手紙第二

 テモテはパウロとともに福音のために働き(使徒16〜20章)、信仰の戦いを勇敢に戦って (第一テモテ1:18)、伝道と集会建設に尽くしてきた人でした。

 この手紙はローマの獄中で書いたパウロの最後の手紙です。パウロは殉教の日が近いことを悟り、 困難な時代に立ち向かっていかなければならない愛するテモテを教え、励ますために、 その思いのすべてを書き残しました。そのとき「キリスト・イエスのりっぱな兵士」(2:3) であるように勧めるのです。

 クリスチャンを「兵士」と呼んでいるのは、聖書の中でこの箇所だけです。けれども信仰の戦い、 武具となると新約聖書の随所にみることができます。ですから私たちすべてのクリスチャンが キリスト・イエスの兵士であることは新約聖書全体をとおして期待されていることです。

 パウロはテモテに「りっぱな」兵士であることを求めています。 それならば兵士としてのクリスチャンのあるべき姿を考えるとき、 その要素はすべてこの手紙の中にあると考えていいと思います。

戦いの大義と兵士の任務

 戦いには大義が必要です。その戦いの目的が高尚であればあるほど、兵士の士気は高まります。 パウロはテモテに「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」 (2:3)と語り、また「福音のために、私と苦しみをともにしてください。」(1:9)とも語りました。 キリスト・イエスの兵士は、福音のために徴募された者たちなのです。これ以上に尊い大義はありません。 パウロはまた「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。」 (1:11)とも言っています。言い換えれば、福音伝道と福音に基づく集会建設です。

 パウロは殉教を前にして、「私は(兵士として)勇敢に戦い、(競技者として走るべき道のりを走り終え、 ・・・今からは、(労苦した農夫として)義の栄冠が用意されている」(2:3〜6、4:7,8)と語っています。 パウロの生涯はまさに、ダマスコの途上で徴募されたときから、キリスト・イエスのりっぱな兵士として、 福音のために戦い抜き、徴募した者を喜ばせるものでありました(2:4)。

キリストの兵士としての認識

 パウロは「キリスト・イエスのりっぱな兵士」であるように呼びかけます(2:3)。 「主はご自分に属するものを知っておられます(2:19)。私たちも誰に属するものか知っています。 そして「キリストの兵士」であるためにはさらに一歩進んだ自覚をもっていなければなりません。 それは自己の古い人はキリストとともに死んで、新しいいのちにキリストとともに生きるものであること (2:11)、それゆえ自分をキリストにささげるべきであること(2:15)、 そしてきよくあるべきこと(2:21)です。実はこれはローマ書六章で教えられていることと同じです。 ローマ書では五章までにキリストの血によって義と認められたことが教えられます。 そして六章で、キリストに属するとはどういうことなのかをはっきりと教えられます。 テモテも私たちも今やキリスト・イエスに属する兵士なのです。 私たちは主から世が与えるのとは違う平安をいただいた(ヨハネ14:27)とき、 キリスト・イエスの兵士として徴募されたのです。

 まずパウロはキリスト・イエスのりっぱな兵士であるように勧め、 それにふさわしくあるように教えました。そしてその上でパウロは困難な時代にあって、 福音のためにどのように戦ったらよいかをテモテに教えます(3:1〜4:8)。

背後にいる敵

 テモテが福音のための働きの中で経験する実際的な事柄の背景にあるのは「世」と「肉」の問題でした (3:1〜13)。その背後にいるのは悪魔です。かつてイエス様は十字架により救いの道を確立され、 やがて来るべき神の国の用意を整えられました。悪魔はこれを阻止することができなかったばかりか、 永遠の行き先を決定づけられてしまいました。その福音の任務を担うキリストの兵士を無力なものにし、 福音の前進を妨げることが今、悪魔にできることです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、 主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」 (エペソ6:12)。その悪魔の兵士が悪霊、武具が「世」と「肉」なのです。

世にあるものを慕う心、世と折り合いよくやっていきたいと思う心、世の嘲笑や非難に対する恐れなど、 この世の支配者は実に巧妙に仕掛けてまいります。 「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、 その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)  「世をも、世にあるものをも愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、 その人のうちに御父を愛する愛はありません。」(Tヨハネ2:15)  「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2) 「世界は私に対して十字架につけられ、 私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)

肉はしばしばいろいろな問題を引き起こします。悪魔は肉の性質に働きかけては、 古い支配の下に引き戻し、十字架の力を削ぐおうとします。「私はほんとうにみじめな人間です。 だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)  「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、 十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)  「地上のからだの諸部分・・・を殺してしまいなさい。」(コロサイ3:5)  「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。」(Tコリント9:27)

神のすべての武具

 エペソ人への手紙6章には、悪魔の策略に対して立ち向かうためにとるべき武具が 7つ紹介されています。テモテへの手紙第二には、まとめては出てきませんが、やはり、 「キリスト・イエスのりっぱな兵士」として戦うためにそれぞれの武具が必要に応じて記されています。 悪魔の策略に対する防具として、真理の帯(2:15)、正義の胸当て(2:19)、 平和の福音の備え(2:8)、そして救いのかぶと(1:9,10)があります。 これらのものは「キリストの兵士としての認識」の中ですでに注目したように戦いの前に あらかじめ備えて身につけているべきものです。もうひとつの防具があります。 それは信仰の大盾(1:5)です。これは戦いのときに悪い者が放つ火矢を消すために、 駆使しなければなりません。悪魔との戦いにおいては信仰を駆使して身を守らなければなりません。 そして時として剣を交えなければならないときもあります。 唯一の攻撃の武具は御霊の与える剣である神のことば(2:9、3:16,17)です。 いざ戦いのときに自由に駆使できるよう使いこなせていなければなりません。 キリストも悪魔との戦いにおいて、まず悪魔の攻撃を信仰の大盾で防ぎ、 そして神のことばである剣を繰り出して戦い、勝利を収められました(マタイ4:1〜11)。 そして7つめの武具は祈り(1:3)です。祈るとき、適切な指令が与えられます。 あるいは援軍が送られます。さらに手ごわい相手に対しては戦況を劇的に変えてくださることもあるのです。 徴募した者と密接な連絡を持ち、その指令の下で戦えば、つねに勝利を得ることができます。 私たちの主はすでに十字架の上で勝利された御方です。

そしてこれらの武具の中にはひとつとしてなくてもよいという武具はありません。 すべての武具が必要です。「神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11、13)とあります。

キリストの王国が確立されるとき、私たちは武具を捨て、白い衣(黙示7:9他)を身にまといます。