「ひとつ」を作り出すものは何か


1.「ひとつ」の重要性


 きょうは、「ひとつ」を作り出すものは何か、一緒にしばらくの間、みことばをともに尋ねていきたいと思います。

 「ひとつ」ということは、たいへん重要なことです。
 第1に、十字架にかかる前、ヨハネ伝17章の、イエス様の祈りの中で「ひとつにしてください」 と繰り返し祈られています。

 第2に、十字架が作り出したものとして、エペソ書1〜3章で、「ひとつ」が詳しく説明がされています。

 第3に、現在、イエス様の命令に従ってパン裂きを守っています。 パン裂きが意味するふたつのうちのひとつ、それがTコリント10章の、この「ひとつ」ということです。

 エペソ書を中心にこの3箇所を開いてお話したいと思います。

 まず「ひとつ」の重要性を踏まえたうえで、どうしたらその「ひとつ」を作り出すことができるか、 エペソ書の後半を見ていきたいと思います。


2.教え=ヨハネ17章


 最初にヨハネ伝17章をお開きになってください。17章全体、イエス様が十字架につく前に、 祈られた祈りが記されています。

  

(0)17章の分割

 ご承知のとおり、1〜5節までがイエス様ご自身についての祈り、6〜19節が、 6節「あなたが世から取り出してわたしに下さった人々」、すなわち弟子たちのための祈りです。 そして20〜26節は、20節ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々」、 つまり弟子たちの伝道によって信じる人たち(その中には現在の私たちも含まれているわけですが) のための祈りです。

  

(1)祈りの内容は「ひとつ」

 そしてその祈りの内容を見ますと、11節「彼ら、すなわち弟子たちがひとつとなるため」 であり、21節「彼ら、すなわち弟子たちの伝道によって救われてくる人々がみな一つとなるため」なのです。 22節、23節にも出てきます。ですから、イエス様は、十字架によって信じるものがひとつとなることを切に願っていたということがわかります。

  

(2)「ひとつ」の基準

 かつてイエス様は、「わたしと父とは一つです。(ヨハネ10:30)と言われました。 ここでも弟子たちの「ひとつ」の基準は御父と御子の完全な交わりです。11節では「私たちと同様に」とおっしゃっていますし、21節でも「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」とおっしゃっています。22節、23節にも出てきます。模範は御父と御子の完全な交わりです。

  

(3)完全な「ひとつ」の性質と優位性

 この御父と御子の交わりのうちには、当然のことながら、そのご性質のすべてが包含されています。 たとえば、11節の「聖なる父」に表されている「聖さ」、後でふれますが「従順」、それから「愛」。 23節を見ますと、弟子たちによって救われた者たちが「ひとつ」を作り出すと、 世の人たちに現われてくるのは「愛」なのです。ですから「互いに愛し合いましょう。」 とみことばが呼びかけていますから、それは確かなことなのですが、御父と御子の完全な交わりに匹敵する 「ひとつ」が実現できれば、その性質の特徴である「愛」は自然と表れてくるものであるということがわかります。

  

(4)ひとつの優位性のたとえ

 この世の例で恐縮ですが、この夏のオリンピックで朝原選手率いる日本の400mリレーチームが 銅メダルを獲得しました。バトンを渡すアンダーパスをずいぶん練習したそうです。 ひとりひとりの能力は外国選手に劣ってもそのチームワークで勝利しました。 逆に優秀な選手で編成されたチームが敗れてしまいました。集会に優れた賜物を持っている人たちがいて ばらばらであるよりも、それなりであっても一致があれば、御父と御子のご性質を表して、 世にその愛を示すことができるのです。


3.教え=エペソ人への手紙


 エペソ人への手紙からも、もう少し、「ひとつ」がいかに大切であるかを見てみたいと思います。

 ご承知のとおり、エペソ人への手紙は、ローマ書、コロサイ書と同様、教えと実際の歩みにはっきり分かれる手紙です。

 1〜3章が「教え」、4〜6章が「実際の歩み」が示されています。

エペソ書のテーマは「ひとつ」ということですが、1〜3章では律法によって敵対する 「2つのものがひとつになった。」ことが語られ、4〜6章で「ひとつを実現するための、実際的な行動」 がしめされています。

  

(0)挨拶

 1章1節、2節は「挨拶」です。

  

(1)「あなたがた」と「私たち」

 続く3〜14節には、わたしたちがイエス様によっていただいた「天の霊的祝福」が記されています。 6つありますが、その中で、9節の4つめの「みこころの奥義」は、「天にあるものも地にあるものも・・・ ひとつに集められること」だと言っています。また5つめの11節の「御国を受け継ぐ者」となったこと、 6つめの13節の「約束の聖霊をもって証印を押された」ことを説明する中で、12節、 「前からキリストに望みを置いていた私たち」というのはもちろんユダヤ人のこと。 続く13節「あなたがたも」、これはエペソの人たちをはじめとする異邦人。そして14節「聖霊は私たちが」の 「私たち」は、ユダヤ人も異邦人も両方、この相容れないふたつの者が、隔てなく、ともにキリストにあって、 天の霊的な祝福に預かるものとなったんだ、というわけです。

  

(2)「ひとつ」のからだに属する

 続く15〜23節は、「パウロの祈り」です。その最後は、20節からイエス様のことであり、 さらに23節、「キリストのひとつからだである集会」のことです。

  

(3)「ともに」

 2章にはいりますと、「神の恵みとしての救い」について語られますが、まず、 「かつての姿」が明らかにされます。1、2節は「異邦人の罪」です。3節は「ユダヤ人の罪」です。 でもキリストのゆえに5節「ともに生かし」、6節「ともによみがえらせ、 ともに天のところに座らせてくださいました。 ユダヤ人も異邦人もともに救いに預かりました。

  

(4)「遠くにいた者」と「近くにいた者」

 11節からは、「異邦人もともに神の国の民」となったことが語られています。 ここでも、異邦人は13節、17節で「遠くにいた」とあり、ユダヤ人は17節、「近くにいた」とあり、 対極に置かれていますが、キリストが「二つのものを一つにした」と、14,15,16,18節と 強調されています。

  

(5)キリストの奥義

 3章には「パウロの使命」が書かれています。4節に「キリストの奥義」とあり、 6節にその奥義が明らかにされています。6節をお読みします。「その奥義とは、福音により、 キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、 ともに約束にあずかる者となるということです。」異邦人もユダヤ人もともにひとつに連なる、 かつて敵対していたものがキリストにあってひとつになった、 これはキリストだけが作り上げることができたことでした。


4.実行=エペソ人への手紙


 イエス様が願い、そして十字架によって実現したこの「ひとつ」ということ、 たいへん重要なことであると、わかっていただけたと思います。知っているだけではなく、 私たちがそれを実現することをイエス様は望んでおられます。それが4〜6章です。

  

(1)「御霊の一致」

 まず3節に「御霊の一致」ということばが出てきます。「一致」のすすめがあるわけですから、 まず人は皆、異なった存在であり、生まれつきのままでは「一致」は作り出せない、 ということを暗示しています。次にそれを実現できるのは、肉ではなく、霊であるということです。

  

(2)「御霊の賜物」

 11節には「御霊の賜物」が記されています。お互いの賜物は皆、それぞれ違うことが 明らかにされています。しかし、16節。互いが認め合い、愛により結び合わされるところに、 一致がある、というわけです。ときどき自分と同じでないと赦せない、という人に出会います。 聖書は、ひとりひとり皆、違う、と言っているのです。同一ではないのです。 互いに認め合い愛にうちに建て上げられるから、主にあるものの交わりはすばらしいのです。

  

(3)ひとつからだの一部分としての歩み

 4章17節から5章14節まででは、25節の後半をお読みしますが、「私たちはからだの一部分として 互いにそれぞれのものだからです。」とあります。1章の最後にキリストのひとつからだである 集会について書かれていました。ここでは、お互いは、ひとつからだの一部分であるのだから、 それにふさわしい歩みはどのようなものか、箇条書き的に具体的にいっぱい記されています。 そしてその最後に、5章18節から、「御霊に満たされなさい。感謝しなさい。 そして互いに従いなさい。と結んでいます。

  

(4)「ひとつ」を作る従順

 この「従いなさい」を受けて、具体的に三つの「従う」話が、5章22節から6章9節に記されています。 ここまでは箇条書き的にたくさん、ことばは適切ではないかもしれませんが、羅列されていました。 なぜ「従う」話だけ、こんなに字数を要しているのでしょうか? それは「一致」を実現する 歩みの秘訣が、従順であるということの証ではないでしょうか?

 5章22節から33節までは、夫婦のことです。ちなみに基準は、22節、「主に従うように」です。

 6章1節から4節は親子のことです。基準は、1節、「主にあって」です。

 そして、6章5節から9節には、主従の関係が語られています。 基準は、7節、「主に仕えるように」です。


 今「ひとつ」ということについてお話しています。けれども「ひとつ」について語ること、 指摘することによっては、まず一致を生み出すことはできません。逆に時として、 分裂を生み出すことさえあります。けれども「従順」は必ず一致を生み出すのです。

 「従順」こそ「ひとつ」をつくる例をふたつ、お話したいと思います。

例1.
 ジョージ・ミューラーが話したひとりの未信者のご主人を持った姉妹のおはなしがあります。
ご主人が毎晩のように遅く帰宅しても姉妹は起きて待っていました。あるとき、ご主人は友人と飲んでいて、「家の家内はどんなに遅く帰っても寝ないで待っているんだ」と自慢しました。すると「いまどきそんな奇特な奥さんなんかいるもんか」「では来てみるか」ということになって、その晩、友人たちと一緒に帰宅します。いつものように待っていてお世話をする姿を見て、友人たちはご主人を責めます。「何でこんなにいい奥さんがいるのにお前は早く家に帰ってやらないんだ」。その晩から、今までの自らの行動を責められたご主人はやがて悔い改めて信仰を持った、というのです。
姉妹の無言の「従順」が夫婦を文字通り「ひとつ」である姿を築いたのです。 もし姉妹が正しいことだからと言って、ご主人の帰宅の時間を責めていたら、 できなかったことではないでしょうか。

例2.
 もうひとつの例はイエス様ご自身です。ヨハネ伝17章をもう一度お開きになってください。 さきほど御父と御子の完全な交わりに「従順」の模範が見られるとお話しました。
1節の括弧の中だけお読みします。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、 子の栄光を現わしてください。」
御父の栄光とは何でしょうか。罪を赦す権威です。罪を赦すことのできる御方は神お一人です。 でも正しい父ですからただ罪を赦すということはできません。
御子の栄光とは何でしょうか。 十字架により罪の赦しの道を築くことは人となられた神でなければできないことです。
御子の従順がなければ、御父のみこころは実現しないのです。御子の従順があって、御父と御子の、 罪人の罪を赦したいというみこころがひとつとなって、実現したのです。

  

(5)「ひとつ」を壊すもの

 エペソ書に戻ってください。今度は6章10節から20節までです。 パウロはなぜ、信仰の武具について語りだしたのでしょうか?  エペソ書のテーマである「ひとつ」とは何の関係があるのでしょうか?

 繰り返しお話してきましたが、十字架につく前、イエス様は、弟子たちと弟子たちによって救われるものが 「ひとつ」になるよう祈られました。十字架によってイエス様は神様との平和を実現したことにより、 律法によって敵対していたユダヤ人と異邦人を「ひとつ」にしました。

 御父と御子が十字架によって罪が赦される道を築いたことによって「ひとつ」が実現しました。 それは御父と御子の栄光でした。

 ここに「ひとつ」を壊したい、御父と御子の栄光が輝かないようにしたいものがいます。それは悪魔です。

 悪魔はどのように働きかけてくるでしょうか? 「ごめんください。悪魔です。 これから集会の一致を壊すために、あなたと組んで働きたいと思ってやってきました。」 といって声をかけてくるでしょうか。いいえ、「私は光の御使い(Uコリント11:14)です。 あなたはたいへん熱心に集会を愛しているので、集会の足りないところをお教えしましょう。 ぜひリーダーシップをとって主の栄光のため眠っている霊を呼び覚まし、集会を改革をしましょう。」と誘い、 分裂を生むように仕掛けるのではないでしょうか。
信仰の武具」は7つあります。17節の「御霊の与える剣である、神のことば」 以外は全部防御のためのものです。

いくつか具体的な例をお話したいと思います。

例1.
「一致」であって、統一ではない

・ 「ひとつ」は統一ではない
 集会が低調であると思われたとき、そう思った者がとりやすい行動は、 学びなどを通して問題を指摘したり、一致を呼びかけて、自分の意見に統一しようとすることです。 これによっては「ひとつ」は作れません。むしろ分裂を生み出してしまいます。 みことばが教えるところは、5章21節の「互いに従いなさい」です。 集会であれば、自分以外の他の兄弟姉妹です。

・ 「ひとつ」を作ることのできるものは誰か
 「互いに」ですから、「ひとつ」を作り出す鍵を握っているのは、長老でもなく、 賜物のある兄弟でもなく、すべての兄弟姉妹です。 さらに言うなら、姉妹たち、若い兄弟姉妹、以前集会の責任を負っていた兄弟たちこそです。

@ 姉妹たち
 姉妹たちというのは、やもめたちに仕え下着や上着を作っていたドルカス(使徒9:36)がよい模範でしょう。 その信仰の姿勢がペテロによる復活となり、多くの人の救いにつながりました。逆にユウオデヤとスントケ (ピリピ4:2)はパウロを助けて過去には福音伝道で大きな働きをした姉妹たちだったけれども、 かしらになってしまって集会の悩みとなってしまっていました。

A 若い兄弟姉妹
 若い兄弟姉妹というのは、ここはちゃんとみことばを示しておきたいと思います。 Tペテロ5章5節をお開きになってください。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。 神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」と教えられているからです。 少しの知識を持つと自分は他の人よりもわかっていると高慢になりやすいからです。 目がイエス様から自分に簡単に移ってしまうのです。

B 以前集会の責任を負っていた兄弟たち
以前集会の責任を負っていた兄弟たちと言いました。現在群れを牧するよう定められているものに従ううえで、 もっともよい模範を示すことのできる立場であるからです。それは主の主権を認めることであり、 従うことを通して「ひとつ」を作り出すキーマンであると言えるかもしれません。

★今お話したことをこの「信仰の武具」に当てはめるなら、「信仰の大盾」で「高ぶり」という火矢を消し、 「神のことば」に示された「従順」によって勝利する、ということになるでしょうか。

例2.
2つめの例をお話したいと思います。「諸集会が2つに分裂している」という指摘、嘆きを聞きました。純真でまじめに心を痛めているのですが、これはまったく「諸集会」のことばの意味を取り違えているために、一致の心配をしながら分裂に加担している考えです。

@ 「諸集会」のことばの意味
・ これは「諸集会」という表現を正しく理解していないからです。 このエペソ書が教えている霊的な集会がひとつであるのに対して地域集会が複数あることから、 「ひとつ」に対して「諸」集会と区別するための表現です。
・ 宗派の団体と区別しようとして使ってしまうのだと思いますが、それでは諸集会派という宗派、 グループを現わすものとなってしまいます。それでは聖書に忠実に集っている集会と言いながら、 自ら分派活動のうちにあることを言い表していることになります。 聖書は地域集会を、地域以外の何ものによっても区分してはいないのです。
・ 神様のみこころは宗派の教会も含めて地上にあるすべての教会は地域集会。 但し私たちが見ているすべてが神様がお立てになった教会とは言えず、 また私たちが交わりを持っている集まりがすべて神様がお立てになった教会といえるわけではありません。 地域集会に未信者が加わっている可能性があるのと同様、 地上の教会は真理に堅くたっている集会から異端まで存在しうるのです。

A するべきこと
 集会と集会の交わりにおいては、牧者はゆだねられた羊が養われて、 「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ことをめざして交わる集会を、 よく吟味する必要があるでしょう。 おのずと健全な地域集会と交わることを選択すべきであることがはっきりしてきます。
・ また個人的には、ひとりひとり、地域集会の中で、自分の賜物を見出し、 他の兄弟姉妹の賜物を認めて、愛により互いに従い、補い合うことをめざすべきでしょう。

★今お話したことをこの「>信仰の武具」に当てはめるなら、「真理の帯」で「まちがった考え」に気づき、 「神のことば」に示された「諸集会の真理」によって勝利する、ということになるでしょうか。

例3.
「ひとつ」と真理、どちらが優先するか

「ひとつ」が大切だと、そのことばだけに走ってしまうと起きること、言い換えれば、 表面的な一致が優先して真理が無視されてしまうことがあります。わかりやすいことから3つ、お話します。
宗教を超えて世界平和のために一緒に活動しましょう、という動きがあります。 終わりの時代には、カトリックを中心とした世界統一宗教活動がよいこととされます。 救いの本質からはずれ、もってのほかです。

★これを「信仰の武具」に当てはめるなら、「平和の福音」で「まちがったすすめ」に気づき、 「神のことば」に示された「福音の真理によって勝利する、ということになるでしょうか。
・ 宗派を超えて一緒に伝道しましょう、という働きかけがあります。パン種に注意しなさい、 という教えを無視し、真理を犠牲にすることになります。
・ そこの集会では真理から外れたことが行われているけど、交わりのため、 その点については見てみぬふりをしましょう。たとえば被り物をしていないとか、いうケースです。 これもまた、パン種に注意しなさい、という教えを無視し、真理を犠牲にすることになります。

★これを「信仰の武具」に当てはめるなら、「真理の帯」で「まちがった誘い」に気づき、 「神のことば」に示された「教え」によって勝利する、ということになるでしょうか。


5.実行=Tコリント10章


  

(1)教え

 最後にTコリント10章をお開きください。14節から22節に、パン裂きの意味のひとつが記されています。 言うまでもなく、パン裂きは、イエス様が命じられた2つしかない儀式のうちのひとつです。 またその意味するところのひとつは11章に書かれていて、「主イエス様を覚える」ということです。 そして今ひとつがこれです。17節だけお読みします。「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、 一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」私たちは主イエス様を覚えながら、 主イエス様によってひとつとされたことを現わしているのです。十字架から2000年、 ずっと十字架の御業によってもたらされたこの「ひとつ」であることに心を留めるよう教えられているのです。 ですから「ひとつ」であることはたいへん重要なことなのです。

(2)実行

 やはりこのみことばの尊い意味に心を留めない方法が行なわれています。いくつか具体例をお話いたします。

@ 1つの集会にふたつのパンはありません。その地域集会の人たち全員がひとつのパンに預かり、 主によってひとつとされたことを現わすからです。

a.ですから、ひとつの地域集会でありながら2箇所でパン裂きが行なわれるということはありえません。

b.また朝と夕方、2回行なう、ということもありえないのです。


A また、ひとりの人がふたつの集会を行き来していつでもどちらでも 自由にパンに預かることができるということはありえません。 一つの器官が二つの体に属しているということはないからです。


B また、あらかじめ杯を分けておくということはありえません。ひとつ杯に預かることに意味があるからです。

 みことばの教えにはそれぞれ重要な意味が含まれています。形だけにしてしまうとやがて、その意味していることも忘れられていってしまいます。


6.まとめ


 まず「ひとつ」の大切さを理解していただけたと思います。イエス様が願い、十字架により実現し、 現在もそれを心に留めるよう儀式が定められています。

 ヨハネ伝17章から「ひとつ」の優先性をお話しました。エペソ書の前半から、 律法によっては敵対していたものがキリストによって「ひとつ」とされたことをお話しました。 そしてTコリント10章から今でも「ひとつ」の意味をよく考えるよう、 毎週機会が与えられていることをお話しました。

 このようなイエス様が大切にされた「ひとつ」を現すためにもっとも必要な徳は「従う」ということです。 ですからパウロは詳しく説明をしました。

 そして悪魔は、イエス様が作ったこの「ひとつ」を壊そうと功名に私たちの肉に対して働きかけてきます。 私たちはそれに対抗できるように信仰の武具を身に着けていなければなりません。