カインとアベル


 創世記4章のカインとアベルの物語から、罪の結果について、 また神様に近づくために必要なことについて書いてみたいと思います。

 3章でアダムは罪を犯して死が人類に入りました。 けれどもアダムはそのように宣言されただけで、 そのときアダムは死を経験することはありませんでした。 どのような形で死を知るようになったでしょうか。それはその子アベルの死でありました。 子どもの死を経験するほど親にとってつらいことはないでしょう。

 ダビデ王は、謀反を起こして自分に反逆した息子アブシャロムが 将軍ヨナタンによって殺されたとき、その知らせを受けて 「わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。 わが子よ。」(サムエル記第2 19:4)と大声で泣き叫びました。

 アベルはカインによって殺されるのですが、その死を知ったときアダムはどう思ったでしょうか。 罪の結果としての死を、愛する子どもの死によって知るのです。 アダムは神様に不従順であることがいかに大きな罪であったかを、 改めてその子の死によって知るのです。
 「思い違いをしてはいけません。 神は侮られるような方ではありません。 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)

 さて、カインとアベルのささげ物について見るとき、 なぜカインのささげ物が神様によって拒まれ、 アベルのささげ物は神様によって受け入れられたのでしょうか。 多くの人が疑問に思うことです。

 ふたりとも自分の従事している仕事からささげ物を持ってきました。 その点において異なることはないように思われます。人間の常識的な考え方からいえば、 自分の手の労働と額に汗を流したものをささげることほど尊いものはないということになります。

 けれどもここに、聖書が語る、人と神様の間の決定的な問題が忘れられているのです。 それは人は罪を犯してしまい、罪のためのいけにえなしには神様に近づくことができない、 ということです。「カインは、 地の作物から主へのささげ物を持って来」(4:3)ました。その地は、 罪のためにのろわれたものとなっていた(3:17)ことを思い出すことができるでしょう。 のろわれた地からの産物は神様にとってふさわしくないものでした。 それは罪の贖いをとおしてからささげられなければなりませんでした。 すなわちカインは神様のみこころを思う信仰がなかったために 血の犠牲のないささげ物をしたのでした。

 それではアベルは最初から牧畜を業としていたのだから運がよかった、 ということになるのでしょうか。人の心を見られる神様ですから、動機がよくなければ、 アベルのささげ物もやはり受け入れられなかったでしょう。実際カインのささげ物については、 その点において4:7で、神様に指摘されています。

 アベルは何を理解していたのでしょうか。それはいのちの犠牲がない限り、 神様に近づくことはできない、ということでした。なぜアベルはそれを理解していたのでしょうか。 それは3:21の出来事を両親から聞いていたことによるのではないでしょうか。 アダムが善悪の知識の木の実を食べたとき、裸であることの恥ずかしさを知って、 それを覆うためにいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作りました(3:7)。 けれどもそれはすぐに朽ちるものですから、神様は動物を殺し、皮をはぎ、着物を作ってくれました。 そのときアダムは罪を覆うためには血を流さなければならないことを知りました。 アダムの罪を悔いる心には「血を注ぎ出すことがなければ、 罪の赦しはない」(ヘブル9:22)ことが深く印象づけられたことでしょう。

 それゆえアベルのささげ物は、初子という最も尊ばれるものを、そしてその中の最良のものを、 という選ばれたささげ物であり、他人の手によってではなく、 自らがそれを持って来るという姿勢に現れました。神様はそのアベルの信仰を見て、 そのささげ物を受け入れられたのでした。

 ところでアダムの血を受け継いでいる私たちもやはり生まれながらに神様に不従順なもの、 罪人ですから、同じく神様に近づくためには、血の犠牲が必要です。 先にも書きましたが「血を注ぎ出すことがなければ、 罪の赦しはない」(ヘブル9:22)は、聖書全巻を通して一貫して、 私たちが神様に近づく唯一の方法です。

 そして、その神様に近づくために仲介者となって下さったのがイエス様です。 パウロはテモテにこのように書きました。「神は、 すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。 また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。 これが時至ってなされたあかしなのです。」(テモテ第1 2:4〜6)  仲介者としてのイエス様は、どうしてもご自身を犠牲にしなければ 神様と人との間の和解が成り立たないことをご存じで、 十字架にかかってすべての人の贖いの代価となって下さいました。 それゆえ今、私たちはイエス様を通していつでも怖れることなく神様に「 アバ、父。」といって近づくことができるようになりました(ローマ8:15)。

 いま少し、「仲介者」ということで書いてみたいと思います。

 仲介者は言うまでもなく仲介する両方の方から信任を得ていなければなりません。 バルナバという人をご紹介しましょう。彼は回心したサウロ(後のパウロ)を エルサレムの使徒たちに紹介するという働きを致しました。この記事は使徒の働き9:26〜27 に記されています。サウロはそれ以前熱心なユダヤ教徒で、クリスチャンを迫害する者でした。 そのサウロが天から現れたイエス様にお会いしてすっかり回心して、 イエス様を神の子と宣べ伝えるものに変わりました。 かつてクリスチャンを迫害するものとして有名であったサウロですから、 にわかに使徒たちはそれを信じることができないのは当然のことです。 そこで仲介者としての働きをしたのがバルナバだったというわけです。 バルナバという名前は、「慰めの子」(使徒4:36) という意味です。のちに異邦人がアンテオケで大勢信じたことが伝えられると、 エルサレムからバルナバがその人たちを励ますよう派遣されました。 その記事の中にバルナバについてこのように書かれています。 「彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。」 (使徒11:24) こういう人でしたから、神様は迫害者であったサウロを エルサレムの使徒たちに紹介するために用いられました。

 町医者が手に負えない患者を大学病院の権威ある先生に紹介することがあります。 このようなときも同じケースでしょうか。

 イエス様は、神と人との仲介者になって下さいました。ただ神様と罪人との間には 「罪」という大きな隔てがあって、たとえイエス様であっても、その人物だけでは、 仲介者となることはできませんでした。イエス様が仲介者となるために、 罪を購うための血の代価が支払われなければなりませんでした。 それも神の子の完全な血でなければ神様に受け入れられません。 イエス様はそれをご承知の上で仲介者となって下さいました。

 そう一度そのみことばを書き記して、仲介者となって下さったイエス様についての話を 終えたいと思います。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、 それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、 ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」 (テモテへの手紙第一 2:5,6)