十字架のことばに見られる

神の愛


 パウロというキリストの使徒が愛について書きました。

 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、 人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、 すべてを耐え忍びます。
(コリント人への手紙第1 13:4〜7)

 愛ということばは誰でも好きです。けれどもなんとなくほんわかとした感じがしますが、 またよくわからないようにも思えます。パウロのこのことばは愛を別のことばによって表現することで 愛の特徴をよくあらわしているといえるでしょう。もちろんこの愛は「神の愛」です。 そしてその「神の愛」を実際をもって私たちに示してくださったお方が主イエス・キリストです。 もしこの「愛」というところに「イエス」と入れると まさしくイエスのご人格が愛そのものであったことに気づきます。

 イエスは金曜日の午前9時に十字架につけられました。両手両足を釘で打ち抜かれ全体重が 3本の釘によって支えられていました。その痛みの極みの中でイエスが母マリヤに「女の方。 そこに、あなたの息子がいます」と言われ、弟子ヨハネに「そこに、あなたの母がいます」といって、 去り行く自分に代わって母を支えていくことを弟子ヨハネにゆだねました。 産み育ててくれた母を死の苦しみの中にあってもイエスは忘れませんでした。 子としての礼儀に反することがなかったのです。

 イエスを十字架につけた兵士や群衆はイエスをののしり「あれは他人を救った。 もし、神のキリストで、選ばれたものであるなら、自分を救ってみろ」と叫んでいました。 しかし、イエスは父なる神に、そのご自分を十字架につけた者たちのためにとりなしの祈りをするのです。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。 イエスは人のした悪を思わないお方でした。

 十字架は3本立ちました。真中がイエスで両側が強盗でした。初め「あなたはキリストではないか。 自分と私たちを救え」と、どなっていましたが、そのうちにひとりはイエスの様子を見ていて気がつきます。 この人は自分の罪のために十字架につけられているのではなく人々の罪を負って十字架についているのだと。 そして「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。 するとイエスはそれまでの彼の、ののしることばに怒ることもなく「まことに、あなたに告げます。 あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と悔い改めた者に対して天国を約束されるのです。

 そして正午のなり全地がやみにおおわれ、3時まで続きます。3時ごろ、イエスは大声で 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。 これはイエスがすべての人の身代わりとして十字架の上で神に見捨てられて、 そのいっさいのさばきをお受けくださった姿でした。もしイエスがこの神のさばきを受けてくださらなければ 私たちはひとり残らずみな死後、神のさばきの前に永遠の滅びを刈り取らなければなりません。 正しい神は罪を見過ごすことができません。イエスもまた不正を喜ばずに真理を喜ばれるお方でしたから その正しさを不完全な人に求めず、自らを身代わりとすることによって貫かれました。

 この後、イエスはすべてのことが完了したことを知って、旧約聖書に預言されているとおりに 「私は渇く」と言われました。まさしくご自分の利益を求めることなくひたすら私たちが永遠に渇いたものに なることがないように、いのちに満ち充ちたお方が渇くことを経験してくださいました。

 こうして罪人と神の交わりの道を完成されたイエスは、神との交わりを回復され「父よ。 わが霊を御手にゆだねます」と叫ばれ、「完了した」といって、霊を神にお渡しになりました。

 これがすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ばれたお方の十字架のみ姿でした。 極限の苦しみの中にありながら、愛に満ちあふれたお方でした。

 ところで最初の愛の特徴を記したそのことばにあなたの名前を入れてもう一度読んでみませんか。「私は寛容であり、私は親切です。また私は人をねたみません。私は自慢せず、私は高慢になりません。私は礼儀に反することをせず、私は自分の利益を求めず、私は怒らず、私は人のした悪を思わず、私は不正を喜ばずに真理を喜びます。私はすべてをがまんし、私はすべてを信じ、私はすべてを期待し、私はすべてを耐え忍びます。」

 もし、平気であなたがこれを読むことができたなら、まったく愛そのものであるか、 まったく厚顔な方であるかどちらかでしょう。もし、途中で恥ずかしくなるようであったら あなたは素直な方でしょう。しかし神の基準からすると明らかに私たちは足りない不完全なものなのです。 やがて神と会うその日、あなたはイエスが必要ではないでしょうか。 イエスは愛で満ちているお方であるばかりでなく、神のみこころを完全に満たしたお方ですので、 イエスの十字架の苦しみがあなたの罪とそのさばきの身代わりであることを信じるなら あなたはその寛容な愛によって救われ、真の平安と永遠のいのちを得ることができるのです。


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