ナジル人


 ナジル人について書いてみたいと思います。なじみのない人種?だと思います。 実は人種でも民族でもなく、 「主のものとして身を聖別するため特別な誓いをし」 (民数記6:2)た人のことをいう呼称です。このナジル人についての教えは、 民数記6章に記されています。

 その要求されることは3つありました。

1. ぶどう酒や強い酒を断たなければなりませんでした(6:3,4)。 これは自らを主にささげたものとして、 自分を喜ばせるものから遠ざかることを意味するのでしょう。
2. 頭にかみそりを当ててはなりませんでした(6:5)。 これは主の聖なるものの象徴であったと思います。
3. 死体に近づいてはなりませんでした(6:6〜8)。 律法にもありますが、死体によって汚れてはなりませんでした。

 自分を一定の期間、神様にささげるため、 それにふさわしく聖くあることを求められているわけです。 これはあくまでも自発的なものなので、期間の定めはありません。 けれどもあらかじめ決めておかなければならなかったようです(6:5,13)。 またその動機についても特に何も定めはないようです。ただ一般的に考えると、 何かよいことがあって感謝の思いから自分をささげたいと思ったり、 あるいは逆に、何か悪いことから脱却するために、 まず自分をささげようと思ったりいろいろあっただろうと思います。

 ただ聖書の中で、明白にナジル人の称号で呼ばれているのはサムソンだけです。 サムエルもまたその母ハンナの言葉からナジル人であったのはまちがいないと思います。 おそらくその他にも大勢ナジル人の誓願をした人は多かったのではないかと思いますが、 はっきりナジル人として知ることのできるのは、このふたりだけだろうと思います。 そして言うまでもなく、霊的な意味から、 神様のみこころに従ってご自分をささげてくださったイエス様は、 真のナジル人といえるでしょう。

 サムソンについては、映画にもなっていますので、ご存知かもしれません。 デリラという愛する女性の懇願に負けて、 ナジル人である力の源である髪のことを話してしまったために、髪の毛をそり落とされ、 ペリシテ人に目をえぐり出され、足かせをして牢につながれます。 しかし髪が伸びると再び力を得、ペリシテの宮に引き出されたとき、 2本の柱を力をこめて引き寄せます。 すると宮が崩れペリシテ人の領主たちなど約3000人の人たちを殺してしまうのです。 サムソンも死にます。

 前回、士師の時代について書きました。サムソンは士師のひとりとして覚えられています。 イスラエルを外敵から救うために神様が起こされたさばきつかさのひとりです。

 サムソンの誕生した頃は、イスラエルはすでに40年間、 ペリシテ人の支配下にありました(士師記13:1、14:4)。 「イスラエルをペリシテ人の手から救い始める」 (13:5)ために神様は、その両親に「生まれる子はナジル人である」ことを告げられました (13:2〜23)。ナジル人の教えからいくと、それは自発的なものであるはずですが、 サムソンについては神様が宣言されました。そしてそのナジル人としての期間も、 誕生前から、その母がみごもる前から 「ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。 ・・・その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神へのナジル人であるからだ。」 と言われます。

 サムソンは実に人間臭く、それは映画になるほどおもしろいのですが、 ペリシテ人との戦いは、神様が 「イスラエルをペリシテ人の手から救い始める」 (13:5<)と言われたとおり、これから長い戦いが続くその始まりでした。 その結婚もノーマルなものではありませんでしたが、実は、神様が 「ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたから」 (14:4)であったりして、 サムソンの生涯はイスラエルとペリシテの間のトラブルメーカーといった感じです。 こうして少しずつペリシテの支配を崩していくことになるのでしょう。

 そしてペリシテ打倒の働きの最高潮は、死をかけてのペリシテの宮の破壊でした。 そのときの戦果はこう記されています。 「こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、 彼が生きている間に殺した者よりも多かった。」 (16:30)

 次はサムエルのことを書きましょう。 サムエルについては機会を改めてまた考えてみたいと思っていますので、 ナジル人としての観点から今回は見てみたいと思います。

 サムエルについては先にも書きましたようにナジル人という表現は出てきません。 けれどもその母の言葉から、彼はナジル人であったことがわかります。

 「エルカナには、ふたりの妻があった。 ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。 ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。」 (Tサムエル記1:2)ペニンナが子どものことでハンナをいらだたせるのに、 ご主人であるエルカナは理解を示してくれませんでした。そこでハンナは、 主の宮に行ったとき、ついに神様に祈ります。 「そして誓願を立てて言った。『万軍の主よ。 もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、 このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。 そして、その子の頭に、かみそりを当てません。』」(1:11) こうして与えられたのが、サムエルでした。 この祈りの内容は明らかにナジル人を想定してのものでした。 その誓願のとおり彼女は、乳離れしたとき、サムエルを主の宮に連れて行き (1:25)、そしてサムエルは祭司エリのもとで主に仕えるようになりました(2:11)。

 「サムエルの生きている間、 主の手がペリシテ人を防いでいた。」(7:13)サムエルは祈りによって、 イスラエルを導きました。「私もまた、 あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」 (12:23)神様はサムエルの信仰を喜び、 イスラエルをペリシテの手から守ってくださいました。

 このようにしてサムエルは、その生涯を主にささげたナジル人として生きるのです。

 さて、私たちの主イエス様こそ、すでに書きましたように、 主のものとして聖別されたナジル人です。

 その生涯は、サムエルによって現わされるように、祈りの人でした。 「キリストは、人としてこの世におられたとき、 自分を死から救うことのできる方に向かって、 大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、 そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7) また言うまでもなく聖いご生涯を送られました。 「キリストは罪を犯したことがなく、 その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、 苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」 (Tペテロ2:22,23)

 そしてその死は、すべての人の罪の贖いを成し遂げたいとの 神様のみこころに従ったものでした。 サムソンは死によってイスラエルの救いの初めとなりましたが、 主イエス様は、その死によって全人類の救いの道を備えられました。 「そして自分から十字架の上で、 私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、 義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、 いやされたのです。」(Tペテロ2:24)

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