幸いな人


 先日、歳のおじいさんが亡くなりました。孫が14人、ひ孫が13人。多くの人は、子どもたちにも恵まれ、天寿をまっとうした幸いな人生であった、と思うことでしょう。いいえ、おじいさんはもっと幸いな人生を歩みました。

葬儀の式次第の略歴はたった4行で表現されていました。1行目、誕生。2行目、結婚。 とんで4行目、死亡。多くの人の人生は、それが長くても短くても、この3つのことで要約されるでしょう。

このおじいさんの略歴には、3行目がありました。85歳のときのことです。 それはイエス・キリストを救い主と信じた、ということでした。これは94年の生涯の中でもっとも大切なこと、 そして幸いな出来事でした。

ダビデは聖書の中にこのように書き記しました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32:1,2)  クリスチャンとは、神様から、イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、罪を赦された、と信じている幸いな人たちといえるでしょう。もしイエス・キリストが死者の中からよみがえらなかったらあわれな人たち、おめでたい人たちといわれるでしょう。神様の御前に罪が赦されていることを知ったクリスチャンは誰でもこの喜びを持っているのです。

おじいさんは戦中、戦後の混乱の中を生きてきました。子育ても事業も、喜びのときとともに、 眠られぬ日を過ごすこともあったでしょう。ダビデもそのような時、神様を見上げ、詠いました。 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」 (詩篇34:8) おかれている状況の厳しさの中にあって、ふと目を神様に向けて、いただいためぐみの数々に思いをめぐらせるとき、心は平安に導かれていく経験をクリスチャンはするのです。

おじいさんは若いときに聖書のお話を聞いたことがあったようです。ですから神が存在するとしたら、創造主であり絶対者である神、秩序をもって治められる神、正しいことを曲げることのない神であることを理解していたようです。しかしそのときにはどのような事情があったかわかりませんが、罪を悔い改めて信じるにはいたらなかったようです。けれども晩年になって信仰をもってからは天国を待ち望む幸いを得ることができました。死はすべての人が行く道とあきらめるのではなく、自分を愛してくださった神様のもとに迎えられる喜びを膨らましていったのです。コラの子たちはこのように詠いました。「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなた(神様)にあり、その心の中にシオン(天国)への大路のある人は。」(詩篇84:5)

おじいさんは地上にいるときすでに神様の家族として覚えられていましたが、今まさに神様の御許で賛美の喜びの中にいるのです。「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。」(詩篇84:4)

おじいさんは多くの幸いを重ねてきましたが、最も幸いであったのは生けるまことの神様に出会い、神様の御前における罪を赦され、永遠のいのちをいただいたことでありました。

どうぞ皆さんも、この幸いをご自分のものとなさいますように。