士師の時代


 今回は、士師(さばきつかさ)の時代のことを取り上げてみたいと思います。 聖書では、「士師記」の部分です。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、このヤコブがカナンの地(今のイスラエル)からエジプトに下ります。 このとき「ヤコブから生まれた者の総数は七十人」 (出エジプト記1:5)にすぎませんでした。エジプトでヤコブの子孫(イスラエル)は増え、時代が進み、 ヨセフを知らない王が起こってからは、イスラエルはエジプトで奴隷にされ、 そしてモーセによってエジプトを脱出します。 このとき「徒歩の壮年の男子は約六十万人」 (出エジプト12:37)に増えていました。40年の荒野の旅の末、ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、 約束の地カナンの征服を果たします。ここまでが今までに書いてきたところです。

 神の選ばれた民イスラエル、それはわたしたちの感性ではサクセスストーリーでなければならないはずですが、 カナンに入ってからのイスラエルの歴史がつづられている士師記は、 どうしてこんな記述があるのかと思うほどに、まったく暗黒の時代であります。

 士師の時代末期のさばきつかさエフタは、「三百年間」 (士師記11:26)という期間を語っていますので、 だいたいBC1400〜1100頃のことと考えられると思います。 この期間、神様はイスラエル全体を統率する指導者をお与えになりませんでした。 外敵が進入してきたときなど必要に応じて士師(さばきつかさ)を起こされました。 その数は大きな働きをした人、名前だけの人を含めて12人(バラクを除く)になると思います。 その中にはギデオンやサムソンなどみなさんも名前を聞いたことがあると思われる人も含まれています。

 士師記の時代がどんなものであったか。一言で言うと 「・・・めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」 (士師記17:6、21:25)時代といえると思います。 そして非常にはっきりしたパターンの繰り返しがみられます。 信仰を捨て異教徒の偶像礼拝に陥り、そのため神様が外敵を遣わされると、 信仰が呼び覚まされて神様に助けを求める。 神様は憐れんでさばきつかさを起こしてイスラエルを助ける。 さばきつかさが治めている間は平和がもどるが、死ぬと瞬く間に、 神様を捨て偶像礼拝にもどってしまう。この繰り返しです。 なんか人間の弱さを象徴しているような感じですね。

 さばきつかさと外敵を列挙するとこのとおりでしょう。

さばきつかさ 治世 外敵 侵略期間 士師記
オテニエル(ユダ族) 40年 アラム人、ナハライム人 8年 3:7〜11
エフデ(ベニヤミン族) 80年 モアブ人,アモン人,アマレク人 18年 3:12〜30
シャムガル(?) ペリシテ人 3:31
デボラ(エフライム族)と
バラク(ナフタリ族)
40年 カナン人 20年 4:1〜5:31
ギデオン(マナセ族) 7年 ミデヤン人、アマレク人 40年 6:1〜8:28
トラ(イッサカル族) 23年 記述なし 10:1,2
ヤイル(東マナセ族) 22年 記述なし 10:3〜5
エフタ(東マナセ族) 18年 ペリシテ人、アモン人 18年 10:6〜12:7
イブツァン(ユダ族?) 7年 記述なし 12:8,9
エロン(ゼブルン族) 10年 記述なし 12:11,12
アブドン(エフライム族) 8年 記述なし 12:13〜15
サムソン(ダン族) 20年 ペリシテ人 40年 13:1〜16:31

 士師記の時代の混乱の原因は明白です。 かつて神様はカナンに入ったときのためにこのように命じておられました。 「・・・あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、 あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。 彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。・・・彼らの祭壇を打ちこわし、 石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。 あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、 あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命記7:1〜6) ヨシュアのときにも失敗がなかったわけではありませんが、 ヨシュアの死後は、「イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、 ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、 また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。こうして、 イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れて、 バアルやアシェラに仕えた。」(士師記3:5〜7)というものでした。 神様が命じられたとおり、信仰を強くして、行なっていればよかったのですが、 残念ながら信仰を捨てて、 自分自身の判断で事を進めても大丈夫だと思うようになってしまったことに、 すべての失敗の原因がありました。私自身もよくやってしまうことですが、 これはいけませんでした。

 もう少し別の観点から失敗の原因を3つ考えてみたいと思います。 ひとつめは信仰の指導者がいなかったということです。 カナンに入ってからの土地の分割が行なわれました(ヨシュア記13〜21章)。 部族ごとにまとまり、そこには信仰的な指導者がいませんでした。 この解決はダビデ王が登場するまで待たなければなりませんでした。

 ふたつめは、信仰の中心が明確でなくなったことです。ひとつめとも関連しますが、 祭司とともに神様に仕えていたレビ族には分割地がなく、 各部族の中に48の町と放牧地が与えられて住むことになりました(ヨシュア記21章)。 分散してしまったのです。また契約の箱もイスラエルがヨルダン川を渡るときには その先頭に進み(ヨシュア記3,4章)、エリコを攻略するときには祭司たちのあとを進み(ヨシュア記6章)、そしてアイを攻略した後、ヨシュアがイスラエルを祝福したときもそこにありました (ヨシュア記8章)。けれども士師記には契約の箱が登場するのは20:27の1箇所だけなのです。 それは当時ベテルにありました。 かつてのように神様の現れるところという重要な位置付けがなくなり、それゆえ、 人々が自分勝手な判断で行動するようになっていました。この解決は、ダビデが志し、 ソロモンが神殿を建設するまで待たれなければなりません。

 そして3つめは、先住民族を駆逐できなかったことです。 滅ぼさなくても追い出せばよかったのですが、 残念ながら恐れをなしたのか共存していても脅威を感じなかったのか、とにかく神様の命令よりも、 とりあえず楽な方を選択してしまいました。その結果、先住民族の偶像礼拝に陥ってしまったり、 常にトラブル、戦いに明け暮れることになるのです。

 この先住民族の偶像礼拝というのは、たいへんおぞましいものでした。 これは聖書の記述ではなく考古学者たちのカナンの遺跡の発見によることですが、 そこではバアルにささげられた子どもの遺骸の壺が多数発見され、 またアシュタロテ神殿では性感の誘惑を企画したような誇張された性器がつけられていたそうです。 そこでは不道徳が行なわれていました。さらに人柱の習慣もあったようです。 家を建てるとき家族に幸運をもたらすために幼児を犠牲にしてその壁に塗りこめていたというのです。 これらの都市を発見した考古学者たちはなぜ神様はもっと早く彼らを滅ぼされなかったのか 驚いているということです。神様はこのようなおぞましいことからイスラエルを守るために、 彼らを徹底的に滅ぼすよう命じられたのではないかと思われます。

 このこともまた、ダビデがイスラエルを建国し、 周囲の敵が服従するソロモンの時代を待たなくてはなりません。

 暗黒時代の原因をいろいろな角度から見てみましたが、結局は信仰を捨てたことです。 なぜそう言い切れるかというと、先住民族との戦いはデボラとバラクのときの20年間だけです。 もちろん戦った相手の記述されていないときにも先住民族との戦いはあったでしょうが、 その多くは外敵との戦いでした。ですからイスラエルの信仰の状態から、 神様が外敵を用いられたことがはっきりと見えてくるのです。

 この士師の時代は、神様が神政政治を行なった時代だと言われます。 傑出した人間の指導者によるのではなく、神様が直接支配をなさった時代だということです。 これ以前はすでに見ましたようにモーセ、ヨシュアがいました。これ以後はサウル王、 ダビデ王、ソロモン王による統治があります。神政政治が行なわれたと言われるこの時代がなぜ、 こんなに混乱していたのでしょうか。それは権力によるのでもなく、組織によるのでもない、 ただ人々の信仰によってのみ、行なわれる統治だからです。神様は見えません。 神様は多くの場合、すぐにさばきをなさらず、まず悔い改めることを待つ忍耐深いお方です。 ですから人々が信仰に立たない限りは、そこには完全な支配は及ばないのです。

 実はこれは現代でも同じです。神様は見えず、さばきのときまで忍耐しておられます。 人々は自分の目に正しいと思われることを行なっています。その中で民主主義を唱え 、社会主義を唱え、共産主義を唱えるのです。どれも完全ではありません。 なぜなら人間には罪の性質、自己中心的な思いがあるからです。ですから科学が進んでも、 文化が栄えても戦いはなくなりません。

 戦いのない平和な時代はやってこないのでしょうか。やはり神様が直接統治する時代、 人間の罪の性質が押さえ込まれてしまう時代がやってこない限りは無理でしょう。 聖書は、イエス様が地上再臨された後、王としてこの地上を支配する時代がまさに、 そのような時代であると語っています。かつて士師の時代の混乱の後、 ダビデ王が現れて、イスラエルの栄光が回復しました。イスラエルの指導者としてのダビデの存在、 ダビデによる神殿建設の志、その栄光ゆえに他民族がイスラエルに従うようになります。 ダビデ王はその信仰ゆえに神様に愛されました。それはソロモン王の時代に頂点に達します

 イエス様が地上を王の王として統治される時代はまさに、戦いのない平和な時代になります。 これはイエス様が統治する時代の預言です。 「エッサイの根株から新芽が生え、 その根から若枝が出て実を結ぶ(イエス様のこと)。その上に、主の霊がとどまる。 それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、 その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、 ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、 小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、 獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、 地を満たすからである。」(イザヤ11:1〜9) 1,000年間イエス様はこの地上を支配なさいます。

 さらに新天新地の時代になれば、罪もなくなってしまいます。 「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、 彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。 なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (黙示録21:3,4)

 では、現代ではまったく本来ならばさいわいであるはずの 神政政治を見ることができないのでしょうか。 それはキリストが支配する集会の中に見られます。聖書の教える集会は、 イエス・キリストの御名の下に集まるイエス様を救い主と信じる者の集まりです。 生まれつきの罪の性質をもつ者の集まりですが、聖霊によって導かれることを喜ぶ者たちの集まりです。 ですからそこには神様の支配が及んでいるという意味で、 まさに神の国が実現しているのです。

 けれども時として信仰が失われ、罪の性質が首をもたげるとき、 そこはいつでも士師の時代のようになる可能性をももっているのです。 この混乱を信仰以外のもので解決しようとするとき、そこに組織や象徴が必要になってきます。 しかし神様のみこころはどこまでもひとりひとりが信仰によって神様と結びついていることです。 これがキリストの集会の姿です。

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