信仰


 今まで、神様のこと、罪のこと、救いについて、お話ししてきました。 今回信仰のことについて主に書きたいと思います。 順番どおり創世記5章から書きたいと思いますが、信仰について書く前に、 5章を見ますとまず、人生を考えなければなりません。

 ここに10人の人たちの名前が出てきます。アダムからノアまでの人たちです。 11章と合わせて見ていくと、人類の歴史がまだ6000年ほどであることがわかります。

 それはともかくとして、この記録を見ると、一律に 「・・・生きて・・・生んだ。・・・死んだ。」の繰り返しです。言い換えると人生を要約すると、 これですべてが表現できるということではないでしょうか。よい人生であるために人は努力します。 それは大変大切なことです。しかし、どんな成功したと思われる人生であっても、 結局最後は死と向かい合わなければなりません。その意味で誰の人生も平等です。 よい人生を送るための努力は大切ですが、 その前に死に勝利する永遠のいのちを得ることはもっと大切ではないでしょうか。

 さて、創世記5章に記されている10人の人の中で、他の人と違う人がいることに 気づかれることでしょう。そうエノクです。アダムから7代目のエノクは、 死を見ることのないように引き上げられました。聖書にはもうひとり死を見ることなく 天に引き上げられた人がいます。預言者エリヤです(列王記第2 2:1)。

 エノクについてはこのように記されています。「 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、 神とともに歩んだ。そして、 息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは 神とともに歩んだ。 神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:21〜24)  「信仰によって、 エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。 移される前に、彼は神に喜ばれている ことが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)

 アダム以来のここに記されている人たちもまちがいなく神様とともに歩んだと思います。 しかしエノクが特別なのはおそらく逆境の中でなお神様に従う信仰の歩みを貫いたのだと思います。

 エノクこそ、創造の目的にかなって、神様を喜ばせる信仰の歩みをした方だったのでしょう。

 「信仰」とは、文字どおり、信じ仰ぐことです。ヘブル書11:1には、 信仰の定義が書かれています。「信仰は望んでいる事がらを保証し、 目に見えないものを確信させるものです。」また 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、 見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(11:3) とあります。そして、天に希望をおいて歩んだ信仰の勇者たちの記事が記されています。 望んでいる事がらとは何でしょうか。目に見えないものとは何でしょうか。 パウロはこのように書いています。「私たちは、見えるものにではなく、 見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、 見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、 神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、 天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、 この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、 私たちは裸の状態になることはないからです。 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。 それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。 そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、 その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。 ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」 (コリント人への手紙第2 4:18〜5:7)

 ある人は奇跡を見たら信じるといいます。またある人はよみがえったキリストを見たら 信じるといいます。けれどもそういう人は、奇跡を見ても信じないし、 よみがえったキリストを見ても信じることはないのです。 なぜならイエス様の時代に多くの人が奇跡を見ながら信じませんでしたし、 死人のよみがえりを見ても信じなかったからです。

 12弟子のひとりトマスは復活されたイエス様が弟子たちの集まっていた家に現れたとき、 そこにいませんでした。8日の後、もう一度イエス様は今度はトマスもいるときに現れました。 そして「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、 また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」 (ヨハネ20:25)と言ったトマスに対して、その手とわき腹の傷を見せていわれました。 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。 見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と、イエス様は言われました。

 さて、神様を喜ばせる信仰の歩みをしたという意味では、イエス様こそ神様に喜ばれ、 神様とともに歩んだ方でした。イエス様は生涯で2度、神様に喜ばれる御方であることが、 神様によって証言されております。一度は公生涯の初めバプテスマを受けたとき、 天から声がしました。「また、天からこう告げる声が聞こえた。 『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイ3:17)  もう一度は十字架にかかる前、最期のときのことについて変貌の山でモーセやエリヤと 打ち合わせをしたとき、天から声がしました。「 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、 『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』 という声がした。」(マタイ17:5)のです。

 そしてそのご生涯は、実際、見えない神様に信頼した、祈りの生涯であり、 すべての人が信じて救われ永遠のいのちにあずかることを望んで、人にも仕えるご生涯でした。

 夜を徹して祈りました。朝早く静かなところに退かれて祈りました。 神様とひとつなる御方でしたけれどもいつも祈られた御方でした。

 また、神様をことばとわざによって人々に現すために、「 狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 (マタイ8:20)とご自身が語られるほど、人々が悔い改めて救われるため 忙しいご生涯を送られました。

 そしてヘブル書の記者は信じる者たちにこのように呼びかけています。 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから 目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめを ものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(12:2)

 「信仰」というと非科学的と思う方もおります。けれども科学の発展が むしろ聖書の正しさを証明しております。生まれて、生んで、そして死んで終わる人生に 価値を見出すか、それとも私たちを造られた神様とともに永遠のいのちのうちに 歩む価値ある人生を見出すか、あるとき決断しなければなりません。