健全な教え


【一】使徒たちの教え

 聖書には大別して三つの教えがあります。それは「旧約の教え」、「キリストの教え」、 そしてこれらの教えを踏まえ、さらに福音の真理に立つ、使徒の働きから黙示録に記されている 「使徒たちの教え」(使徒の働き二・四二)です。牧会書簡では「健全な教え」と表現されています。

 たとえば「献金」については、律法の時代には、神様は十分の一を示して、 神様にささげることを教えられました。そうでなければ人はみな自分のものにしてしまったことでしょう (レビ記七・三〇)。イエス様はレプタ二つのたとえをとおして、神様が求めておられるのは ささげる者の心であることを教えられました(マルコ一二・四三、四四)。そして使徒パウロは、 主からいただいた恵みを覚えて自分で決めてささげるよう教えるのです。 福音に立ってきわめて実際的です。(Uコリント九・七)

 また「再臨」については、預言者たちを通して、神様は神の国とメシアによる支配の実現を 明らかにされました(イザヤ書他)。イエス様はその前の地上再臨の前兆について語りました (マタイ二四章他)。そして使徒パウロは、さらにその前のキリスト者が引き上げられる 空中再臨のことを明らかにするのです。救いにあずかった者がさばきの苦しみに会うことは ありえないからです。(Tテサロニケ四・一三〜一七)

 このように、「使徒たちの教え」は私たちキリスト者のための教えです。その内容は、 キリストご自身(コロサイ、ヘブル書等)、福音(ローマ、ガラテヤ書等)、 集会(コリント、エペソ、牧会書簡等)、信仰生活(ヨハネ書簡、一部書簡後半等)、 そして未来(テサロニケ、黙示録等)のことであって、福音と福音に基づく事柄です。 もちろん「旧約の教え」にも「キリストの教え」にもそのまま私たちの歩みに適用すべき教えも あることを忘れてはなりません。

【二】健全な教え

 パウロはテモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙では特に「健全な教え」 という表現を用いています。どうしてわざわざ「健全な教え」という表現を用いたのでしょうか。 それは、パウロの晩年、牧会書簡を書いたころには福音の真理に基づかないユダヤ教からの 改宗者などによる「違った教え」(Tテモテ一・三)が集会の中にはいってきて 明確に区別した表現を用いる必要があったからでしょう。ある人たちはさらに積極的で、 真理からそれても自分たちに都合のよいことだけを語ってもらえる教師たちを求めるという有様でした。

Uテモテ四・三、四

 実は、使徒たちの手紙の多くは、誤った教えが入ってきたため、健全な教えを示して正すために 書かれました。たとえば、ガラテヤ人への手紙は、キリストの救いだけでは十分でない、 律法を守ることも必要だ、という誤った教えが入ってきましたから、 信仰によってのみ義とされることを教えました。コロサイ人への手紙では、 キリストの本質を遠ざけてしまうような、まことしやかな議論(二・四)、だましごとの哲学(八)、 儀式主義(一六)、御使い礼拝(一八)など)が入ってきたので、 キリストの神性をよく説く必要があって書かれました。

 ですからパウロはテモテやテトスに、そのゆだねられた人たちを「健全な教え」 からそれることのないように、よく教えるよう指導する必要がありました。

 信者が健全に守られるためには、教えこそ大切です。それを伝えるのは「ことば」であり、 「人格」です。使徒たちは「健全な教え」に従って「健全な教え」を伝えるよう教えます。 具体的には@「あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。」(テトス二・一)とあるように、 その語る内容についてであり、またA「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り」 (Tペテロ四・一一)とあるように、その話し方についてでありました。 今私たちは学び会や伝道集会で使徒たちが残してくれた教えをお話いたします。 それぞれのときについての健全な教えにふさわしい内容、話し方について考えてみたいと思います。

【三】学び会編

(一)内容(健全な教えにふさわしいことを話す)
「あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。」(テトス二・一) これはパウロの手紙の構成がそうであるように、教理的なことと実際的なこととがあります。

@ 教理的なこと
 すでに見てきましたように、健全な教えは福音に基づいています。しかし健全な教えにふさわしいと 思われることばであっても、実はその内容がまったくすりかえられていることがあります。 たとえば「愛」です。愛を強調する方の行動を見ていると、ときとしてそれは自分につく人の範囲の話で あって、その枠を外れるとたいへん冷たいという実態を見ます。愛は強調されなければなりません。 しかしそれはご自分を犠牲にしても、罪をもって敵対する私たちを愛してくださったキリストのはかり しれない愛です。この愛こそ福音が私たちに教えてくれた愛であり、この愛によって私たちは救われました。 この愛が語られ実行されていなければなりません。

 もうひとつ健全な教えにかなうようなことばであっても誤って使われる例をあげたいと思います。 それは「一致」です。集会の中で強い人、またはそれに近い人によって強調されるとき、 その意味は、自分の意見への一致を求めている、ということがあります。福音が教えるのは、 キリストによって神様と和解したお互いは、仮にユダヤ人と異邦人のように相容れないもので あったとしても、キリストにあっての御霊の一致を持つことができるということです。

 あることばだけが強調されて福音とかけ離れて用いられるとき、交わりは壊れていきます。 それは短い期間に起きることもありますし、長い年月を経て起きることもあります。 けれども福音に基づいて健全に教えられていれば交わりはたいへんさいわいなものになります。 すべての信者が守られます。

A 実際的なこと
 「あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。」(テトス二・一) この勧めに続いてパウロは具体的に健全な教えにふさわしい歩みがどのようなものか、 老人たち、年をとった婦人たち、若い人々、そして奴隷と、世代、立場ごとに示しています。 きよい歩みは、キリストが私たちのためにご自身をささげられた目的であると強調されています。 つまり十字架の福音が私たちに求めていることです。(テトス二・二〜一四)

(二)話し方(神のことばにふさわしく語る)
 神のことばを説き明かすにあたっては言うまでもなくみことばに基づいて語られなければなりません。 章節を丁寧におって解説すべきですし、その箇所や手紙ならその全体の教えていることを 踏まえたものでなければなりません。神のことばは余すことなく伝えられなければならないからです (コロサイ一・二五)。これは神様のみこころを取り次ぐ基本的な姿勢であって十分な祈りをもって 準備しなければなりません。時としてある一節を取り上げてそこから自由に発展していってしまう話を 伺うことがあります。お話している方は聖書全体から語っているつもりであるかもしれませんが、 往々にして自分の考えを主張している場合が多いようです。そしていつも同じ話の繰り返しが行われます。 神のことばに自分の考えなどの混ぜ物をしたり(Uコリント二・一七)、 曲げてしまったり(Uコリント四・二)することがないよう、まず事前に十分吟味すべきです。

 またもし旧約聖書や福音書から語ろうとするなら、「使徒たちの教え」に基づいて説き明かすことを 心がけなければなりません。

 そしてみことばを説き明かすときは、聴く者のことを強く意識することが大切です。 「預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」 (Tコリント一四:三) 異言のように自分が納得するように語るのではなく、 あくまでも聴いている方々がみことばを理解して益(徳、勧め、慰め)が得られるように 語らなければなりません。神のことばは「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」 (ヘブル四・一二)ほど力があるのですから時として痛みが伴うことがあるかもしれませんが、 最終的に聴くものの益になることを心がけたものでなければなりません。

【四】伝道集会編

(一)内容(健全な教えにふさわしいことを話す)
 すでに見てきましたように使徒たちの教えの基礎となっているのは、福音です。 その福音をお伝えするのが伝道集会です。その福音についてパウロは信者であるコリントの人々に改めて 「あなたがたに福音を知らせましょう。」(Tコリント一五・一)と語って、 「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、 また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(一五・三、四)とその根幹を示しました。 このこと、すなわち救いについてお話しするために、その前に罪についてお話しなければなりませんし、 さらに神様についてお話しなければなりません。伝道集会でお話しするのは神、罪、救い、信仰、 そしてこの恵みを私たちに提供してくださったキリストご自身です。

(二)話し方(神のことばにふさわしく語る)
 これが「キリストの使節」Uコリント五・二〇)として私たちにゆだねられているものです。 使節というのは、遣わした政府の意思を伝える者であって、 けっして自分の考えや意見を交えることがあってはならないのです。 私たちも福音そのものを語るのです。
 ペテロは「美しの門」のところにいた男に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。」 と言いました。(使徒三・六)「私にあるもの」、それはもちろん福音です。 これは他の誰も提供することのできないものです。では「金銀」とは何でしょうか。 世が与えるものです。世の中には、政治、社会活動、宗教など、心の荒廃などを訴えて、改革しよう、 救いましょう、という多くの働きがあります。しかしそれらは本当の救いをもたらすものではありません。 そのような世の与えるものと同じ観点(時事問題、道徳、教育等)から問題提起をするなら、 なおさら多くの時間をそのことに割くべきではないでしょう。「私にあるもの」 を伝えるために時間を割くべきです。

 「信じたらさいわいです。」と力説されるのをよく聞きます。聴いている方はそれだけでは どうしてさいわいなのかわかりません。どんな宗教でも同じことを言うでしょう。 福音を丁寧にお話しすることです。

 罪が理解できると、救いがわかります。ですが罪についてお話しすることはたいへん難しいこと、 知恵のいることであると思います。わかりやすくお話しするために、信者の失敗を話したり、 聖書の中の物語でも特に不品行の情景を詳しく描写するのは賢明ではないと思います。 時としてつまずきの石を置くことになっているかもしれません。

【五】まとめ

 パウロがテトスに示した長老の条件の最後に「教えにかなった信頼すべきみことばを、 しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、 反対する人たちを正したりすることができるためです。」(一・九)とあります。 学び会や伝道集会で兄弟たちみなによって健全な教えがそれにふさわしく語られていれば、 「イエス・キリストを通して神があがめられる」(Tペテロ四・一一)ことになるでしょう。